「ポテトサンド」と「ハム&エッグサンド」
2021年01月24日
人が民主的な選挙の結果を受け容れる義務があると感じるのは、他のほとんどの投票者と基本的な絆がある場合に限られる。他の投票者の経験が私にとって異質のもので、彼らがこちらの気持ちを理解しておらず、こちらの死活にかかわる利害の問題に関心がないと私が思っていたら、たとえ100対1という票数で負かされても、その結果を受け容れる理由はまったくない。民主的な選挙は普通、共通の宗教的信念や国家の神話のような共通の絆をあらかじめ持っている集団内でしか機能しない。選挙は、基本的な事柄ですでに合意している人々の間での意見の相違を処理するための方法なのだ。(「ホモ・デウス」下巻 page67 ユヴァル・ノア・ハラリ 2016)
先週ホワイトハウスのあるじが、ついに交代したわけですが、去年の秋以来かの国の大統領選挙に関連したニュース、さらには今年になってからの議事堂襲撃などの破壊活動を見るたびに、上の記述を思い出します。
同じ国の国民でありながら、選挙結果を受け入れられないということが「基本的な絆」、「共通の絆」の欠如によるものだとしたら、分断、断絶は決定的で、修復には相当な時間がかかるのでしょう。
良くも悪くも世界でいちばん影響力のある国家が安定を欠けば、世界全体の安定性も危ういのは自明ですから、狂人がホワイトハウスからいなくなったからといっても、まだまだ安心はできません。
それにしても、ハラリというのは「歴史学者」ということになってはいますが、すごい洞察力、射程距離の長さ、広大な視野角、驚異の知性ならぬ知性の驚異ですね。
わたしの場合、記憶と知性の衰退の度合いが驚異です ^ ^ 実は、上に引用した一節が、どの本にあったのか思い出せず、えらい苦労しました。こういうのは、その時に無理やりでも思い出しておかないと、2度と記憶の回路がつながらなくなるのだそうですね。苦労して思い出した航跡は、こんな感じでした。
□たしかコーチャンフォーで買った本だった、、
□ということは、その帰りにボストンベイクに寄ってパンを買ったはず、、
□ということは、パンの写真を探して撮影日を確認し、手帳でその日に買った本をチェックすればわかるはず、、
で、いくつかのパンの写真と手帳を付き合わせて、ようやくたどり着きました、、、去年8月に買った「ホモ・デウス」。
思い起こせば、この日は書店でミシェル・フーコーの「狂気の歴史」が平積みになっているのを発見して驚いたこと、フーコーのおかげで昔「ひどい目」にあったことなどをブログに書いていました‥‥時間の流れの、なんと早いことか、、
キャッチの画像は、「記憶追跡」の「道標」になってくれた「ポテトサンド」と「ハム&エッグサンド」byボストンベイク 新川店 です。